
午前七時二十分。
病棟のナースステーションには、夜勤から引き継ぎを受ける看護師たちの声が響いていた。
「おはようございます!」
明るい声で入ってきたのは、二十六歳の看護師、美咲だった。
髪はきちんとまとめられ、白衣にはしわ一つない。
「今日もよろしくお願いします!」
先輩たちに笑顔で挨拶をする。
「美咲ちゃん、昨日の患者さん、夜どうだった?」
「大丈夫です。今朝も笑顔で話されてました」
「さすが。よく見てるね」
「ありがとうございます」
美咲は笑った。
患者の前でも、彼女はいつも笑顔だった。
「おはようございます。今日の具合はいかがですか?」
「美咲さんが来てくれると安心するよ」
「そう言っていただけるとうれしいです」
患者の不安を聞き、薬を確認し、点滴を見て、ナースコールにもすぐ対応する。
同僚から見ても、美咲は「いい看護師」だった。
優しい。
まじめ。
気が利く。
責任感が強い。
頼まれると断れない。
そして、ほとんど愚痴を言わない。
――少なくとも、病棟では。
*
午後四時。
「美咲さん、すみません。これ、まだ終わってなくて……」
二年目の後輩が申し訳なさそうに言った。
「いいよ。私がやるから」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫」
また笑った。
後輩が去ったあと、美咲は一人で記録を入力した。
時計を見る。
定時は過ぎている。
それでも仕事は終わらない。
「……なんで私ばっかり」
小さな声が漏れた。
誰も聞いていない。
「私だって疲れてるのに」
キーボードを打つ指が止まった。
数秒後、美咲は深呼吸をした。
「……こんなこと言っちゃダメ」
そして、また笑顔を作った。
*
その夜。
家に帰ると、美咲は白衣を脱いだ。
ソファに座り、スマートフォンを見る。
友人からメッセージが来ていた。
『今度の土曜日、遊びに行かない?』
美咲はしばらく画面を見つめた。
本当は休みたい。
一日中、何もしたくない。
誰にも気を遣いたくない。
でも、
『いいよ! 楽しみ!』
と返信した。
送信したあと、スマートフォンを伏せる。
「……私、何してるんだろ」
部屋は静かだった。
病院では見せなかった顔が、少しずつ浮かんできた。
疲れている。
腹が立っている。
寂しい。
誰かに「頑張っているね」と言ってほしい。
本当は助けてほしい。
そして――
「私だって、褒められたい」
その言葉を口にした瞬間、美咲は少し驚いた。
そんなことを考える自分が、なんとなく嫌だった。
看護師なのだから。
患者を優先する。
後輩を助ける。
笑顔でいる。
弱音を吐かない。
そういう人でなければならない。
美咲は、いつの間にかそう思っていた。
*
翌週。
病棟が忙しくなった。
入院が重なり、ナースコールが続いた。
美咲は走り回っていた。
「美咲さん、これお願いします!」
「はい!」
「美咲さん、この患者さんの家族から電話です!」
「わかりました!」
「美咲ちゃん、悪いけどこの処置もお願いできる?」
「……はい」
気がつけば、自分の仕事が後回しになっていた。
そして、後輩が一つミスをした。
「すみません……」
美咲の中で何かが切れた。
「どうして確認しなかったの?」
声が強くなった。
「……すみません」
「何回も言ってるよね?」
後輩の顔がこわばった。
美咲自身も驚いていた。
――私はこんな言い方をする人じゃない。
そう思った。
でも、その瞬間、心の奥から別の声が聞こえた。
――私だって、ずっと我慢してる。
――なんで私だけ助ける側なの?
――誰か私を助けてよ。
*
その日の帰り。
美咲は更衣室の鏡を見た。
そこには、いつもの「優しい看護師」の顔があった。
笑顔。
清潔な白衣。
きちんとした髪。
信頼される看護師。
でも、鏡の中の自分の目は笑っていなかった。
「私には、いくつ顔があるんだろう」
患者の前では、優しい看護師。
先輩の前では、できる後輩。
後輩の前では、頼れる先輩。
医師の前では、冷静な専門職。
友人の前では、明るい女の子。
家では、疲れ切った一人の人間。
どれが本当の自分なのだろう。
*
翌日、美咲は少しだけ違う行動をした。
後輩が、
「昨日はすみませんでした」
と言ったとき、
「私も言い過ぎた。ごめん」
と答えた。
そして少し迷ってから、
「実は私も最近、ちょっと疲れてるんだ」
と言った。
後輩は驚いた。
「美咲さんでも疲れるんですね」
「当たり前でしょ」
二人は笑った。
「じゃあ、今日は一緒にやりましょう」
「うん」
その日、美咲は初めて、
「助けて」
と言った。
先輩に仕事を一つ頼んだ。
意外なことに、先輩は嫌な顔をしなかった。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
そう言われた。
*
その夜、美咲は考えた。
優しい自分も、本当の自分。
怒っている自分も、本当の自分。
人を助けたい自分も、
誰かに助けてほしい自分も、
どちらも自分なのだ。
白衣を着れば「看護師」になる。
でも、白衣を脱いでも、自分は消えない。
笑顔の下に怒りがあってもいい。
責任感の裏に、逃げたい気持ちがあってもいい。
誰かを救いたいと思う一方で、
自分も救ってほしいと思ってもいい。
それらを無理に消そうとすると、
いつか別の形で顔を出す。
だから美咲は、自分の中にいる「もう一人の自分」に初めて声をかけた。
「……あなたも、私なんだね」
窓の外には、病院の明かりが見えていた。
明日もきっと、白衣を着る。
患者の前では笑うだろう。
後輩を助けるだろう。
忙しければ、また腹が立つかもしれない。
それでも今までとは少し違う。
完璧な看護師になろうとするのではなく、
いくつもの顔を持った一人の人間として、
明日の病棟に向かおうと思った。
――白衣の下には、白衣では隠しきれない「私」がいる。
それもまた、私だった。




